役にたっている実感がほしいと思うことについて

私は、私立大学のキャリアカウンセラーという仕事をさせてもらっています。
もう2年以上になるので、少し自信をもってやれるようになってきました。
そうはいっても、毎回これでよかったのかどうかと自問自答していることには変わりありませんが.
同じ大学へ行っている仲間とも時々勉強会をします。
他の人の様子を聞いたり、気をつけたいことを確認したりと
毎回有意義に過ごせています。
この前、新学期にあたっての集まりの時、カウンセラーと大学職員との職域があいまいで、どうも居心地の悪さを感じるという話が出ました。
私もそのことについては同感だなあと思いましたが、さりとて解決方法もなく発言せずに終わりました。
後日、やはりそのことが気になり、カウンセラーとしては上級者の友人に尋ねてみました。
友人:「どうしてそう思うの?」
私 : 「うーん、役にたっているのかなあという不安とか、暇にしていてわるいなあとか・・・」
友人:「それって、自分の存在をはっきりさせたいとか、役にたっていることをわかってもらいたいとかいうことじゃない?」
確かにそうかもしれません。そこまで強く思っていませんが。
友人:「カウンセラーは、学校や病院など別組織に入っていって、居心地のわるいもんなんだ。でも、いないと困るひとなんだから、どうどうとふらふらひまにしていいんだよ。だから、じっくり向かい合って話しができるんだし、違う視点から話を聞く人なんだから。」
そう言われて、なるほどなあと思いました。
ある心理療法の本に
「自分がひとにどう映るかと言うことに関心を向けているというのは、相当な精神的エネルギーを使っている。このナルシズムをカッコにいれて、そういうことから自由になると小さなことに気づく、あるいは多軸でものを考えられる」というふうに書いてあるのを思いだし、まさに今の私がそうだなあと思いました。
このことは、ファシリテーターとして動く時にも言えると思います。
なかなか、ここから出られずにいる私をあらためて確認しています。
また、自分に都合よく考えるなら(得意のパターンですが)
時間がある、余裕がある、これもわたしのよさのひとつなんだと
思ってもいいではないかとも思いました。
そんなこんなをつらつら考えながら、
秋の夜長、虫の音を楽しみながら過ごしています。


役にたっている実感がほしいと思うことについて” に対して1件のコメントがあります。

  1. ruko より:

    「自分がひとにどう映るかと言うことに関心を向けているというのは、相当な精神的エネルギーを使っている。このナルシズムをカッコにいれて、そういうことから自由になると小さなことに気づく、あるいは多軸でものを考えられる」この言葉、読んでいる私にも響きました。私はカッコどころか、大文字太字にして意識的に生きていた時代(10代のころ)がありました。今思えば、表向きには肩に力をいれて頑張って、それなりの評価はもらえていても、相当不自由で疲れていたんだろうな~それでもって、鈍感で気づかぬままに小さなことはバサバサと切り捨て踏みにじっていたのかもしれないな~その上押しが強いのであちこちぶつかってはそのことを理解できずにさらに鎧を厚くしていたのかもしれないな~。
    そんなことを思い、自分のことながらちょっと気の毒にも思ってしまいました。今思えば、そういう最中であっても「なにかへんだな~」という違和感はどこかにあったのかもしれません。けれども日常を必死にやっていく中でなかなか立ち止まってそれを見つめることができなかった。その相手をしてくれる人もなかった気がしています。体験学習に出会って、仲間のおかけで、今は違和感を大事にすることで気づけることもあることを知りました。そう思うことで相手をしてくれる人も見つかるものだとわかりました。まだまだ多軸でものを考えられる自分とは思えないけれども「肩の力をぬきなよ」と言ってくれる仲間に恵まれたことは大きな喜びであり感謝です。さらに欲張れば、人にこころからそう言ってあげられるようになりたいものだと思うこのごろであります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。