自己判断、自己責任
今日から8月。夏真っ盛りですね。今年は猛暑だそうで、その上にコロナが猛威を振るっています。
なかなか心から夏休みを楽しむという感じではないのが残念です。
我が家の夏休みのスタートは、隣家に住む長男の自宅療養から始まりました。たまたま実家に帰っていた、息子の妻と娘はそのまま実家に留まることになり、療養中の息子の食事の世話は私たちが請け負うことに。突然のことで、二人前から三人前の食事作り変更にあたふた。使い捨ての容器を探したり、買ったり、大したことないようでも結構日常とは違う経験をしました。
今回の第7波は、とっても身近に感染者が多く、コロナが他人事ではないと感じさせられています。今までの中で一番私の周辺での感染者が多く、自分もいつ感染者になるか分からないと感じています。「今まではどうだったんだ!」と言われそうですが、呑気な私はそんなに危機感を持っていなかったということだと思います。
というような状況にも関わらず、今回は政府は緊急事態宣言も出さず、対応をそれぞれの自己判断に任せている感じです。過去最高の感染者がいるのに何故?今まではどうして直ぐに緊急事態宣言してたの?治療薬もきちんとできていないよね。医療体制だって・・・。私には疑問だらけです(緊急事態宣言出してほしいと思っているわけではありません)。
第7波が起こって私に最初の変化が起こったのは、8月に行う予定だった所属団体の研修を予定通り行うかどうかの判断でした。呑気な私は、参加者は大人だし行動規制はないのだから、参加者の方に自己判断していただいて、主催者側としてはできる限りの感染対策と、起こってくる緊急事態(参加人数の変化やスタッフが感染した場合など)に対応できるように準備すると意見を伝えました。しかし、実施に向けて動こうというのは私だけでした。参加者の安全を確保できないので中止しようというのが、他のメンバーの意見でした。という訳で、研修は中止。その後は、大学院での授業(修了生がお手伝いで参加)の担当者が家族の発熱で大学に来れなくなり、急遽お手伝いというよりは実施補佐のような参加になり、学生の感染者に対する試験対応あり、息子の感染があり、まあいろいろとコロナに対応することが起こりました。一方、予定通りに行われることも多く、こちらは自己判断で参加をしていきました。ちなみに私は予定変更を自ら決めたことは、1つもなく過ごしています。用心深い性格ではないのだと、つくづく思います。
私たちは自己判断には自己責任が伴うものと思っていますよね。だから判断には慎重になり、安全策をとりたくなります。じゃあ、自己責任って何でしょう?私は自分の判断に伴って起こってくることに真摯に向き合い、できることを誠実にしていくことと思っています。逃げ出さない、嘘をつかない、甘えない。実際私にとって、これはかなり厳しいものです。だから自己判断を安易に行っているわけではありません。でも判断も責任と同じように、起こっていることに向き合い自分に誠実でいたいと思っています。時にはそれが我が儘に思えるようなこともあるかもしれません。
多くの人は私と違い、他人の分まで責任を持とうとするのではないでしょうか。先の研修の決定も、参加者の安全確保ができないというものでした。この考え方は主催者としては当たり前かもしれませんが、私はどんな場合でも他人の安全なんて確保する自信はありません。以前に東日本大震災の直後に、五泊六日の研修を半田(愛知県の知多半島付け根辺り)で行うかどうか検討したことがありました。この時も開催に反対する人がいました。この時期に海から遠くない所で人を集めて研修をするのは不適切ということでした。津波がきたら・・・。確かに私は津波から人を助けることはできません。安全を考えたら海から離れた家にいる方がいいのかもしれません。ただその判断は、その方にお任せしたいです。できる限りの情報を提供し、相手からの質問や不安にはお応えし、その上でその方の判断を尊重したいのです。その方にはその方の自己判断や自己責任の力があると信じたいのです。
あくまでも、このことは私の考え方です。異論のある方もいらっしゃるでしょう。そういう方と耳を傾け合って話がしたいです。お互いの理解が深まるのも、お互いの力が発揮し合えるのも、そういうところから始まると思います。
コロナは色々な難儀を私たちにもたらしていますが、こういうことを実感を伴って考えるよいチャンスを与えてくれてもいます。誰もが社会の風潮や情勢に流されるのではなく、自分で決めて、自分で動ける自由な社会の創造をめざして、このチャンスを生かしていきませんか。
guako