今日はこの地方の県立高校の卒業式。

ご卒業の皆様、「卒業おめでとうございます。」

しかし時間が経つのは早いもので、我が子の時からでも早10年。自分の時からは…

 

今年は県立高校の1つである新城東高校が閉校になり、2月28日に最後の卒業式が行われたというニュースを見た。

新城東高校には忘れられない思い出がある。

長男の高校野球最後の試合で、何と延長14回の熱闘の末に4対3で負けた相手校なのである。

私自身のことではないが、今でも新城東高校と聞くと長男の瑞穂野球場での最後の姿と共に、悔しさがふつふつと湧いてくる。

私も卒業した短期大学が4年生大学と統合して今はもう校舎さえ無いので、母校がなくなる寂しさは自分のことのように分かる。卒業生の挨拶などを聞くとグッとくるものもある。しかし、今回のこのニュースはそういったものとは少し違った感じも湧いてしまうのである。

試合は双方が頑張って戦っての結果で、相手に対して恨みもなければ嫌いなわけでもないのだが、それでもちょっとした「ふーんなくなるのね」的ないやらしい気持ちが起こっているのを自分に感じた。

もう10年以上も経っているし、「私は何と了見の狭い奴なのだろう」と思いつつも、湧いてくる思いは悲しいかな何とも仕方ない。

 

実は、こういった思いは色々なところでもっていて、私の価値観に少なからず影響を与えているのだと思う。そしてそういう自分がいることは忘れてはいけないと思っている。

私は結構思い切りが良い方なので、ともすると自分の思いだけで動いてしまう。「こうしなきゃダメでしょ」「みんなこうするに決まってるでしょ」などと思ってしまうこともある。時には自分の思う通りにならなくて、イラつくことだってある。

こういう自分の中で起こっていることは、人間関係などというものを学んでいるから気づけたことでもあるが、息子たちに親にしてもらったことで学べたことでもある。子育てというのは思う通りにならないことばかり。「ありえない‼」と思うことや、そんなはっきりした思いを持つことさえできないことがたくさんある。

白黒つけたい、さっさとやってしまいたい私には、この曖昧さを享受していくことは、修行であり、最大の学びであった。そしてこのことを通して、自分の中にある色々な思いに気づいたり、自分にない考えもなるほどと思うことが、少なからずできるようになったと思う(未だに先にも書いたように了見の狭い奴だが)。

こう思えるのは、もちろん随分自分を甘く見ての話だし、いつも家族が一緒にいてくれたからの話だが。

 

この春から初夏にかけて、今度は息子たちが私をおばあちゃんにしてくれる予定だ。娘、妻、母と生きてきて、ついに祖母になる。「孫は可愛くて仕方ない」を実感する日がくるのだろうと思う。

今度は孫たちと一緒に何を気づき、学ばせてもらえるのか。どんな自分や息子たちに出会えるのかワクワクする。

元気に生まれてきてくれることが、本当に楽しみである。

 

ついでにと言っては何だが、アイキャッチにいつも愛犬の写真を使っているのは、私が大好きだから皆も気に入ってくれると思っているからだ。

だって可愛いでしょ❣