仕事の役割
先日、二日続きのある研修会に参加してきた。
そこで、気づいたことがある。
人は、日常の仕事場での役割を、その仕事を離れてもついつい
取ってしまうものなのかなということ。
グループで活動をする場面では、司会役、まとめ役、聞き役、一人一人をみていて様子の違う人を気に掛ける役、
確認役、タイムキーパーなど。
仕切る、様子を見てついていく、人の出方を待つ、などの日常の癖も出るものだ。
話し方、早口かゆっくりか、大きな声か小声か、使う専門用語、英語の業界用語などは、普段話しているように口をついて出てくる。その業界では、ふつうに使われているものなのだろう。その仕事の立場の論理もある。優先すべき事項、成績、生産性など。
普段、そうした条件の中で仕事をしているのだから、その癖が出てくるのもある意味当たり前かもしれない。
だが、それはその人そのものなんだろうか?
そういうものを取り払って、本当の欲求や感情に向き合ってみるとどうなんだろう。
課題のないグループで向き合うときに、そのいつもの役割は必要なのだろうか。
RLハウの「対話の奇跡」には、「対話は出会いを前提とする」人間関係には、人々の生活と経験がもたらした各人
各様の”意味”(世界観、価値観、生活信条、態度など)と”欲求”が織り込まれ、人はその意味と欲求をコミュニケーションに
持ち込む。コミュニケーションは、話し手と聞き手の両方が、率直に相手の意味を受け入れて、お互いに自由に応答しあわないかぎり成立しない。このような呼びかけと応答によって、両者の間に”意味”の出会いがおこり、自分の意味を
受け入れられたいという両者の欲求は満たされ、両者は互いに人間として受容し受容され、そのような対話的関係を通して
はじめてコミュニケーションは達成される。とある。
仕事の上での役割から獲得した能力や態度は、その人の一面ではあろうが、その人そのものの意味や欲求なのだろうか?
いつもの役割を取っている分には、新しい場所では安心できるのかもしれないが、他者との関わりを通して新しい自分を見出す
ためには、時に、邪魔になることもあるのではないだろうか?
素になるには、時間がかかるかもしれないが、周りの人との真のコミュニケーションを得たいと感じたときは、
自分の中にある役割意識や癖を意識したうえで、できるだけ素になれるように関わりたいと思う。