秋の一日

先日、大学の学部の授業の手伝いで、学生さんと「無言の探索」をやりました。
ペアになって、一人は目隠しして、もう一人がサポートしながら無言で一緒に時を過ごすというものです。
今回は、五感を意識すること、互いの思いを伝えあい、受け取ること、自分の気持ちの変化に気づくことをねらいに取り組みました。顔は知っている程度の方といっしょに、役割を30分づつで交代しながら、大学の構内を歩いたり、自然に触れながら過ごしました。
その日は秋晴れの気持ちのいい一日で、視覚が遮断されているともったいないような美しい日でした。
鳥の声や風の音、空気の冷たさ、ぬれ落ち葉の感触、日向のたまり水の生ぬるさ、足元の見えない危うさ、出会った人の感触やぬくもり、いつも使わない五感を使いつつ、頭の中では、少し前まで見ていた残像とイメージによる映像があり、そんな自分を面白く感じていました。前に経験したことがあるからか、また相手を信頼していたからか、目の見えない怖さはあまりありませんでした。
案内するときは、相手の安心を優先的に考え、どんなことを味わってもらおうかと思考をめぐらしつつ、目に映るものを眺めていました。強く吹いた風に落ち葉が散る様子を見せてあげたい、あの木の下に行ったらわかるのかもと、急いで木の下に連れて行っても、時すでに遅しで、風はやみ、落ち葉は降ってこない状況になっていました。一人こころのなかで「あーあ」とつぶやき、案内する私は視覚情報を優先していることに気づきました。そして今の私が何をしたかったか、残念な気持ちでいることを伝える言葉がないことが、もどかしさに拍車をかけました。
そんな体験をしながら、感覚について思うことは、視覚がないと他の情報が補い合って私の頭の中に視覚と同じような情報をもたらしてくれるし、一つの感覚だけでなく複数同時に働いていて、それが頭のなかに統合されているなと思いました。たとえば、陽だまりの生ぬるい水に触ったとき、なまぬるさと、水の感触、まぶたを通して感じる太陽の光を感知し、陽だまりを認識し、噴水が流れる音をキャッチして自分の位置情報を知るという複雑なことをしています。
視覚は物事をキャッチする重要な感覚だけど、同時に感じる他の感覚のどこが意識されるかで見えたと考えるものも違ったりするのかなと思います。
そんなことをつらつら考えながら、2014年の秋の一日を満喫した私です。
先週は恵那方面にドライブに行き、思わず「里の秋」を口ずさみたくなりような、里山の秋をみることができました。
街路樹の銀杏も黄色に輝き、朝晩の気温の変化に、深まりゆく秋を感じます。
そして、すぐに12月です。
 

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