16年前

東日本大震災、それに伴う大津波、被災した原発の事故など、報道を通してみる様子に愕然とするばかりです。「自然の猛威」という言葉で片付けるには、あまりにも大きすぎる犠牲だと感じています。
さて、16年前、私は兵庫県で「阪神泡時代震災」の被災地にいました。当時、娘たちは3歳と2歳。本人たちに確かめても、「よく覚えていない」という頃の出来事です。
私たちは主人の転勤に伴って、その年の1月4日に引っ越しをしたばかりでした。
当日は、会社の命を受けて、神戸まで出て行ってしまった主人を見送り、娘たちと眠れぬ夜を過ごしたのですが、娘たちの存在は、私に「守らなければならない」という使命感を与えただけでなく、水が出なかったり、ガスが使えなかったりという不便な時間の中でも、笑ったり、けんかしたりという日常を繰り返してくれていた点で、貴重でした。
結局、3日後の19日には私の実家に3人で避難することになり、荷物を担いで、小さな子の手を引いて兵庫~愛知を時間を掛けて移動しました。
さて、今回の3月11日。
実は私はその娘たちと千葉にいました。
高校を卒業した娘の卒業旅行の意味で、ディズニーランドに出かけていたわけです。
前日の夜のバスでわたしたち3人が出かけ、当日の夕方には主人と前述の時にはまだ生を受けていなかった末娘と合流する予定になっていました。
14時46分の三陸沖が震源地だった自身の時は、ちょうど遅めの昼食を終える頃。さて、店を出ようかという時に、大きな横揺れに気づき、「まだ危険じゃない、早く収まれ」と祈っていました。長い、長い揺れの時間の中で、いつ立て揺れになるかという恐怖と背中合わせで、店の中、テーブルの上の状態を見ていた気がします。
収まったところで、娘たちと「とにかく店を出よう」と意見一致して、店を出て、次の目的地のディズニーランドに向けて歩き出したところで、15時15分の茨城沖の震源地の方に遭遇しました。
既に先の揺れでところどころ液状化して泥が噴出している道路の真ん中で、またしても大きなうねりを、今度は、道路が波打つという状態や、周りの建物の音、地面の様子、植え込みや、地割れなど、まるで映画の一シーンを観ているような錯覚を覚えつつ、危険のかどうかの判断をしつつ立っていました。
娘たちが「かあさん、危ないから、しゃがまないと!」といったのに対して、「大丈夫!」と答えたことや、高架橋の上から「危ないです、座ってください!」という声に、「その橋が危ないですよ、下の地面が持ってかれています!」と答えていたことも記憶しています。
過信だったのか、体が危険を判断できたのか、今のところは大丈夫という冷静さがどこかにあったのをすごく意識していました。
結局、今回も私と娘たちの3人で、千葉~愛知の移動をすることになったのですが、当然のことながら、16年前天使だった娘たちは、今では立派な人間になっていて、困っている人の手助けや、声掛け、他の人に必要以上に迷惑を掛けないような行動など、自分たちの判断でやってのけるたくましさが身についていることを、知らされ、親としては、たくましく、やさしく成長した娘たちを自慢に思ったり、今まで、彼女たちに関わってくださったであろういろいろな方に感謝したりする機会になりました。
私の経験は、ひどく辛いものではなかったですが、今回、被災された多くの方、もっともっと大変な思いをなさっている方々にも、いつか、時の流れをいとおしく思えるような時がくることを願ってやみません。
どうか、一日も早く、日常がやってくるようお祈りしています。


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