500円玉の大きさ
以前に子どもの学校の保護者向けの講演会で「あなたにとって500円の価値は?」という話題が出ました。
特に硬貨に限っての話題だったので、「以前なら100円だったのですが、今、100円で買える欲しいものと言われてもなかなか思いつかないでしょう」という前提で、500円と言うことだったと思います。
Seedsでは、自己研鑽のためもあって、年に数回、実習を実際にやってみて、そこで気付いたことをフィードバックするという時間を持っています。今月の実習は価値観に関するコンセンサス実習でした。
その中で、“100万円”というお金についてのやり取りがありました。
一人が「ポケットに入るから!」と発言する場面があったのですが、実習後のわかちあいでその場面を取り上げた他のメンバーが「片手に一杯というイメージだったけど、『ポケットに入る』と聞いて『えっ!』と思った」という発言をしました。
確かに100万円、一万円札なら(たった)100枚。紙幣よりも厚みのあるハガキにしてみても“一抱え”でないことは見当が付きます。ただ、これが“お金”という意味を持つと、それぞれの価値観が反映して、考える際の量も大きく違ってきたりするということを明確に示したやり取りだったわけです。
さて、話は変わります。
先日、私の末娘と母が、話題の駅前ビルの地階にあるチョコレート専門店でアイスクリームを食べたそうです。母は「多少高くとも一度は食べてみたかった」と言い、たまたま、すいていたので孫とその店に入ったそうです。母には価格はどうあろうとそこのアイスを“食べる”ことに大きな価値があったんでしょう。
娘に「おいしかった?」と聞くと、「味が濃かった」と言い、“美味しかった”とは言いませんでした。よくよく聞くと、味の良し悪しよりも、値段が大きく影響していて、素直に“美味しかった”には結びつかなかったようです。
一つ600円。
行きつけのアイスクリーム専門店だったら、ダブルのパフェ仕立てが楽に食べられ、お腹一杯になる値段です。
興奮した様子で娘が続けました。
「信じられる?その店、こんな(20センチぐらいの細い)チョコレートケーキが2本で1X00円なんだよ!びっくりしたし!」
彼女にはそのチョコレートにその価格分だけの“価値”は見出せなかったんでしょう。
さて、出だしの500円の話に戻ります。
その講演会では、「帰宅してから“500円玉の大きさ”と思う円を紙の上に書いてみてください。そして、実際に書いた円と500円の大きさを比べると、『自分が持つ500円分の価値』が分かります」という話しでした。
実際よりも大きく書いた人は500円を実際以上に“価値ある”ものと認識していて、小さく書いた人はその反対なんだそうです。
ちなみに、私はまだ試していません…。
興味のある方は一度お試しあれ。
「ポケットにはいる。」は、かつての仕事の関係で、毎月帯つきの100万円の束を目にしたり数えたりするのを見ていたので、その時の目に焼きついたイメージで発想したまでです。私個人の価値観でいうならば、100万円は風呂敷包みいっぱい、背負ってでも持ち出したい気持には変わりはないですが・・・500円玉は最近はワンコインと言って手軽なイメージ。でも、昨日はこの値段でU店では麻素材のズボンが買えた。発泡酒ならば3本は買える。私の500円玉は、直径5センチくらいありそうだわ。