書道教室

今年に入ってから書道始めた。

私は、小学生の時にお習字に行っていたし、OL時代も文化センターの書道教室に行っていた。なんと雅号まで持っている。でも子供が生まれてからは余裕がなくなりやめてしまった。

3年前に亡くなった母が書を楽しんでおり、ずいぶん熱心にやっていたが、父の介護やら自分の体調の関係で晩年はやらなくなってしまった。その様子を見て、母が気の毒なような、なんとなく寂しいような感じをもっていたので、今の状況が一段落したら、一緒に私も始めよう、母から教わってもいいなと思っていた。しかし、結局それは、かなわぬこととなった。

今年になってから、ひょんなことから長く会っていなかっ従姉に会うことができた。従姉とお互い自分のことをいろいろ話しているなかで、書道のことが話題になり、従姉の後押しもあって、やっと書道を始めることを決心した。

 

今は、米芾(べいふつ)という北宋時代を代表する書家の臨書をしている。王義之や顔真卿などは知っていたが、先生に紹介してもらって初めて知った書家である。柔らかいのにシャープで、独特の文字の傾きが素敵である。

しかし、臨書をしてみても、その特徴はつかめず、一人で手本を見て書いても我流になってしまう。先生の指導の時に米芾の特徴を指摘してもらうと、自分は手本の何を見ていたのだろうと愕然とする。でも、ひとたびその見方を手に入れると、他の文字も特徴に気づけるような目になってくるから不思議である。何かうまく行かないと思うと、文字の中の空間やバランス、傾き具合が微妙に違っている。それには一人ではなかなか気づけない。だからこそお稽古に行き、また一緒に練習する人の様子を観ることに意味があることにも気づく。

長年身に着けた「とめ・はね」の筆遣いを手放し、米芾の特徴を手に入れると、私の文字も一皮むけるかなと思っている。しかし、これにはまた集中力が必要である。何か落ち着きのない日に筆をとっても、納得がいくように書けない。書けない自分を見て、自分がとらわれていることにも気づくことがあったりする。なかなか「道」は奥深いのである。

とはいえ、思いがけず会心の文字が書けたときはうれしい。何がどうというわけではないが、まるで天から何か降りてきたよう書ける日がある。そんな偶然を喜びながら、この先の人生の彩になるよう楽しみたいと思っている。