関わってみること
近くに住む老親を、つかず離れず気にしながら、十数年がたち、
つかず、の割合が少しずつ減って、離れず、が多くなりました。
これからどうしていきたいか、どうなっていくのか、老親自身の変化、気持ち、
子である私や弟の状況、気持ちを
そのとき、そのとき考えて行こうと決めながら、ここまで来た感じです。
少しずつ、行政の手を借りながら、介護認定をお願いし、地域のサービスを利用し、
父、母、それぞれに合った介護の方法を考えて、進めてきています。
新しいことを、始める時、例えば、初めてデイサービスに行くとき、持ち物が
ちゃんと準備できるか、出かける支度が、時間通りできているか、その施設に馴染めるか、
居心地がいいか、など気になります。
その都度、ケアマネージャーさんに相談して、介護サービスでできることを提案してもらって
うちの事情にあった、送迎の時間調整など、きめの細かい工夫をしていただいています。
週に、2回、3回、朝の30分、集中して母の出かけの支度を手伝ってくださるヘルパーさんと、
詳しい母の様子を聞く機会があったときに、私とは違う見方の、母の行動や認知の具合を説明され、
「そうかな」と感じたり、「でも、今はそうなのかな」と思いなおしたり、
「私が一番よく知っているのに」という娘の気持ちが、ちょっとざわざわしたり、
そのヘルパーさんと、母の関係が、とてもいいことは、ありがたいと思いつつ、ちょっと
「嫉妬」みたいな感情が湧くのは、なんだろうか・・・とモヤモヤしたり、
実務仕事のように割り切ってできないのも、身内を看ていただく、というときに
起こってくるものなんだろうなと、感じています。
先日、山梨県の清里で、HIL研究会(ヒューマンインターラクションラボラトリー研究会)に参加してきました。
1年間の、会員の活動の報告や研究発表を、いろいろと聞きながら、私自身も発表に参加しながら、
人と人が、「関わってみる」中で、新しく生まれてくるもの、を感じました。
自分の中でだけ、考えていてもわからないこと、気づくのが難しいことが、相手と関わることで、
その先に、見えてくるものや、わかってくることが確かにあるなあという、実感です。
こっち側だけで、考えていても、堂々巡りのモヤモヤがあるとき、
やはり、相手に直接きいてみることが、いいんだろうなと思います。
自分の問題なのか相手の問題なのか、お互いの問題なのか、そんなことはよくわからなしい、
単純じゃない、決められないことが多いです。問題を解決したいと思いがちだけれど、
自分の側の意向だけでは、深いところでは、かなわないこと。
それよりも、自分のモヤモヤがあるのは、どこなのか、なんなのか、そこを解きほぐすために、
勇気をもって相手に関わることが、第一歩なのかなと、そんなふうに感じました。
母を担当してくださっているヘルパーさんと、直接お話しできるよう
あさっては、実家に行ってみようと思っています。