臆病さと大胆さ

我が家の愛犬は臆病であると思う。不意の音にビビったり、散歩の際に他の犬に出会うと正面からは近づけないが、行き過ぎると後ろから吠えて向かって行ったりする。飼い主としては少々情けない。

私はよく他人から「はっきりしているね」とか「大胆だねぇー」とか「決断力があるね」言われる。だから臆病ではないのかというと、そうではないと思う。結構心の中ではぐちゃぐちゃと思っているのである。ただ、そのことを表現することが苦手である。時にはそのぐちゃぐちゃを伝えなければならなくなることがある。そういう時には「そのことをもっと早くから言ってくれたら、もっとよく分かったのに」と言われることもある。ただ、私はそう言われても言えて良かったと思うことが少ない。ぐちゃぐちゃは私自身のことだから私が何とかしますと思ってしまう。ぐちゃぐちゃを通り過ぎた私を見てくれれば良いと思ってしまうのである。そしてそこに起こったことを、一緒に共有していきましょうよと思ってしまう。

どこからそうなってしまったのか?根っからの性格だけなのか?

私は小・中・高・短大と、自分の意見をはっきり言うことを良しとする学校で学び続けてきた。家庭でも昭和2年生まれで「女は黙ってろ」という父に対抗して、結構はっきりと主張をして生きてきた。結婚してからも「結果だけ言ってくれればいい」という3人の男たちに囲まれて生活してきた。ぐちゃぐちゃ言っていても誰も聞いていない。むしろ「いつまでその話?」と言われてしまう。私がぐちゃぐちゃを言うことが快いことは殆どなかった。

だからこそぐちゃぐちゃの後の表現が大事なのである。そして自分の中では、戸惑いを超えているので「はっきり」している。私にとってはいかに自分に正直に、言っていることとやっていることが一致しているかが問題なのである。このことは先回のブログでお伝えしたことと類似している。よっぽど私の大きなテーマなのだと思う。ぐちゃぐちゃをあまり表現しない分、表現した自分でしか勝負できない。勝負という表現はちょっと違うかもしれないが、表現した自分から逃げずに起こったことを受け入れ、そこに向き合いたいのである。自分で納得できる自分でなければ、これはできない。

そういう表現が他人には大胆に見えたりするらしい。私は決して大胆ではないと自分では思う。臆病さの表現が下手なのである。臆病さは大胆なパフォーマンスの準備段階であり、他人の目にふれるパフォーマンスするときには、陰に隠れてしまっているようだ。というより見せないようにしているのだと思う。

私はきっと後ろからではなく、正面から吠えかかっているのかもしれない。

私がこの歳まで人間関係を学ぶ場にいるのは、こういったところに由来しているのかもしれない。