仲間を感じるとき

ここ17年の間、大好きで何度も通ってきた場所がある。

数々の出会い、今もみずみずしい記憶と共に蘇る場面と強い思い。

いつまでたっても、色あせない場所。

それは、今の私にとって、こころの栄養となり、血となり、肉となり

私自身の中に確かにあるものだから。

そこは、神聖な場所、神が人を呼び集める場所。迎えてくれる祈りの家。

そして、学ぶものにとっては、美しい場、厳しい場、包み込んでくれる場、しずかな時を与えてくれる場、そこで懸命に生きる人を見守ってくれる。

試される、内面の齟齬や矛盾が、あぶりだされる。

深く問われるとき をくれる場所。

試練のときは、辛く苦しいが、真摯に逃げずに取り組むことに意味があり、信じることがこころを強くする。

 

人と人が出会うには、精一杯生きる覚悟が必要。

相手を信じるからこそ、嘘をつかず、ごまかしもせず、

私はこうである。と言い切れる。私には、こう見える。こう感じている。と。

一緒にいてくれる仲間を信じられるからこそ、勇気を持てる。

見守ってもらい、励ましをもらい、待ってもらい、促してもらい

確かめてもらい、背中を押してもらい、

結果を恐れず、正しい答えを出さなければと、焦ることなく、

自分に向き合い、相手と向き合う。たずねる。そしてこたえる。

上でもなく、下でもない、ひとりの人と人として、ともにある。

言うは易し、行うは難し。

それでも、それを自分に問いながら、相手と向き合ったとき、

ときに、人は人と出会えることがある。

出会えないこともある。

 

出会えたときそれは、本当に美しい。

そしてそれは、震えるほどの響きをもたらす。

それに立ち会う者みなに、響きが伝播していく。

人として生きている喜び、響きを感じあえるよろこび。

この響きが、ゆきわたると、そこに一緒にいる人のために、

自分を精一杯使いたいと思う。できることをしたいと願う。

この瞬間 私が仲間を感じるとき。

さりげなく訪れることもある 苦しみをわかちあうことも、それでも

仲間を信じ、仲間を感じるとき 本当の意味で自由になれる

自分を信じられるようになる

今年も、この場所に行ってきた。

仲間を信じて、精一杯生きてきた。

よびかけに、こたえてもらえるかどうかは、わからないけれど。