作品と人柄

少し前の日曜日、何気なくテレビをつけたら「日曜美術館」をやっていた。
ラウル・デュフィという画家の特集で、美しい色彩に魅かれその番組をそのまま見続けることにした。
そのうちに、絵画そのもののすばらしさもさることながら
司会進行役の井浦新と解説に招かれているアーティストの日比野克彦との会話のかみ合わなさに関心がいった。
ラウル・デュフィ(1877-1953)は、ピカソやマティスなどとともに、20世紀前半にフランスで活躍した画家で、代表作である、パリ万国博覧会のための装飾壁画《電気の精》(パリ市立近代美術館蔵)のように、明るい色彩と軽快な筆さばきで描く、独自のスタイルを築いた。彼の手によって描き出される南仏の街や社交界といった近代生活の諸相は、華やかさ、軽やかさを湛え、社会や生活の明るい側面を鮮やかな色彩と軽やかなタッチで描くデュフィの作品は、「生きる喜び」を表現するものとされてきた。(ウキペディアより)
井浦がデュフィの代表作を見てその特徴などの解説のVTRの後
「デュフィのやさしい人柄を感じますね」とか、「音があふれ出ているような感じがしますね」
といったようなコメントをするのだが、
それに対し日比野は
「青は、空の色、水の色なので、どんな人の育った環境にもある色で、その人にとっての青がある」
と色の特徴を述べたり、
「花が音符に見えるように技術を駆使している」といったテクニックで見せられていることを教えてくれる。
日比野は、井浦のコメントに同意もしないが、否定もしない。淡々と自分の考えを述べる。
なにか日比野と井浦の会話の違和感があった。
そのうち井浦が「私はデュフィの明るい人柄を感じる。でも私はまたもやデュフィのマジックにかかっていますかね」
というような前置きをしながらコメントしたあたりから、違和感の意味がわかってきた。
デュフィがパリ万博に出品した「電気の精」という壁画は、明るい未来を予感する素敵な作品だった。
それを日比野は同じパリ万博にピカソが「ゲルニカ」を出していることを取り上げながら
「誰もが時代の影響を受けている。その受け方はひとそれぞれで、人間が科学技術を磨いてきた歴史と
この先も明るい未来があると信じたい時代の要請がある一方、不穏な空気を感じ警鐘を鳴らしたいと考える人もいたということ」であって、明るいポジティブな人柄だから描いた絵だといいきることはできないことを言ったように私は聞いた。
私は「日曜美術館」の企画のマジックにはまったのだろうか?
しかし、これをきっかけに、私は、先月、看護専門学校の授業で行ったディベートを思い出した。
講義の中で「意見は人柄とイコールではない」と伝えている。
学生はそのことに対し
「なるほどと思うが、自分は意見と人柄とを一致させてとらえることにも気づいた」
いう感想があった。
私たちはものごとを印象でとらえることが多いし、それは物事をどう感じるかの大事な感覚だけど、
それだけで評価をすることの危うさもある。
アウトプットされたものが好みに合う合わないの判断はあってもいいが、
それを出している人となりは、簡単にわかるものではないことをわすれないでいたいと思った。
秋には、デュフィの展覧会が名古屋に来るらしい。
ぜひ、デュフィの色彩のマジックに酔いたいなと思う。
 


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