何事も経験、近い将来のため

高齢化社会と言われるようになって、もう30年以上たっていると思う。その当時は、まだまだピンと来ていなくて、自分には遠いことのように感じていたものだ。私の祖父母は、それぞれ想像以上に長生きしてくれて、自宅でぽっくりと亡くなった。大往生だと言って見送ったものだ。年老いたら、大きな病気をしなければ、そんなもんだと思っていた。

私の親たちもそう思っていただろう。還暦を過ぎたころから、健康食品や、体にいいと言われる野菜ジュースだの、健康器具などを買い込んで、健康に励んでいた気がする。その甲斐あってなのかどうか、両親とも平均寿命以上を生きており、大きな病気もどうにかくぐりぬけ、今は、二人でケアハウスでお世話になっている。自分で食事もとれるしトイレにもいけるが、母は薬の管理や、食事づくりは満足にできなくなっていたし、火の始末が心配になっていた。父は転倒から肩の骨折に続き、腰椎圧迫骨折と、歩くこともままならない状態になっていた。そんな状態の父母を、離れた家から私と弟とで3年ほど支え、デイサービスやヘルパーさんにも随分お世話になった。父母の要望と、よりよいサービスの利用をどうすり合わせるか、いろいろ悩んだり、ケアマネさんに相談したりもした。私が12歳の頃から知っている、隣のお宅のおじさん、おばさんにも事情を話して、緊急事態にはお世話にもなった。

1年半前に、父が希望して、母と一緒に施設に入ることになり、やっと施設の生活にも慣れてきた。だが、天気予報で、台風が来るとか、風が強くなるとか聞くと、家を見回りに行きたいという。そのたびに、私か弟が実家を見に行き、戸締り、庭先のものが風で飛ばされないように、処置をした。夏には草刈り、正月前には、お飾りをしておいてほしいという。季節の着替えもあるので、ときどき実家の見回りを兼ね、片付けにも通った。

人が住まなくなると、家は途端に生気が無くなる。野良猫が軒下に住み着くようになり、草だらけの庭には、蚊が発生する。近所にも迷惑になるし、住み手のない家を建て替えることも難しい。

49年前に開発されたその地域は、そんな、住み手のいない家が、あちこちで放置されている。子世代が、遠くに住んでいる場合は、年に1度も誰も訪れない。ひっそりと閉じられた窓や雨戸。さび付いた門扉。

12歳で真新しい住宅街に移り住んだときは、わくわくしたし、綺麗な街並みが誇らしい気分だった。青春時代を過ごし、結婚して他の地域に移り住んだ。そして、私の息子たちにとっては、やさしいおじいちゃんおばあちゃんの家だった。出産で里帰りもしたし、お盆とお正月には弟家族とともに食事をしたり泊まったり。にぎやかに過ごしたものだ。

だが、その子供たちも、それぞれに結婚して所帯を持った。49年、約半世紀の間、私たち家族を過ごさせてくれた家とも、お別れをすることにした。もう十分、役目を果たしてくれたと思う。

平成から令和に変わったこの時期に、実家の土地はつぎの買い手がついた。住宅会社が分譲住宅を建てて、売り出すそうだ。新しい住人があの場所で、新しい暮らしを始めるのだという。あの場所を、生かしてもらえるのは、なんだかうれしいことだ。

土地というバトンを、渡したような気がする。

実家の荷物を片付け、伽藍洞になった家を最後に見に行って、家族で写真を撮った。更地になった土地は、こんなに広かったかなというほど、大きく見えた。中学、高校、短大、毎朝出て行き、毎日帰ってきた家は、もうなくなった。

すべての手続きが、昨日やっと終わった。最終の手続きが無事に済んで、今はほっとしている。

この3~4年の間は、特に、親の介護や実家に関することをずっとやってきた。30年前には、そういう時間を経験することになるとは、夢にも思わなかったが、高齢化社会というものが進めば、なんでも自分たちでできるという訳にはいかない。運転もままならなくなり、買い物に困る。医者に通うにも、食事を用意するのも、誰かの手助けを必要とするし、助けてもらわなければ生きられない。

その現実を、どう受け入れて、どう決断していくか、子ども世代に心配をなるべくかけずに、でも、自分の希望に沿ったかたちで、快適に暮らせるようにしていくには、どうしたらいいか。

親たちのことを考えてきて、自分なりに思うこと、気づいたことがたくさんある。老後、どう生きていきたいか、何を大事にしたいのか。そういうことも含めて、少し早めに想像力を働かせ、物を増やさず、必要なものとそうでないものを区別して、厳選して、今を丁寧に生きていかないと、と痛感している。